静かだった。
思えば、僕にとって初めての父の墓参りだ。以前にも2〜3度行ったが、僕のその時の心情では墓参りでは無かった。ただ、行っただけだった。
菩提樹の下に父は眠っている。花は咲いていなかったが、勢い良く新しい葉が噴き出していた。柔らかく、清々しい緑色だった。
父の大好きなビールをしっかりと染み込ませ、手を合わせ父に報告をした。
“僕は大丈夫だからもう心配はいりません”と。
父の誕生日から2日離れたが、今日行く事に大きな意味があった。
お父さん、また行きますね。
言葉には魅力と魔力がある。
今朝、とある人物から僕のこのブログについて、
“かっこ付けたいからやってるんでしょ!”
と、言われた。
非常に強い怒りを覚えた。確かに、1人でも多くの人に読んでもらいたいと思っている。だが、格好を付けているつもりは全く無い。僕が思った事、考えて辿りついた事、そして僕が撮り自分らしいと思った写真を知って欲しいのだ。そして、直ぐに物事を忘れる自分への戒めの為だ。
これを読んだり見たりした人がどう捉えるかはその人の自由。だが、形に残る言葉で非難されると辛い。客観的に考えても、其れをして誰が得をするのか全く分からない。
こんな事でいちいち腹を立てる自分もどうかと思うが。
ちょっとした言い回しや声の抑揚で誤解が生まれたり、相手の気分を害する事はよくある。このブログを再開してから勢いのみで投稿して来たが、配慮が足りなかったり誤った情報を残していた点が多くあった。先日、母の助言により気が付き、急いで修正あるいは削除した。
インターネットでは、それを削除しても何かの形で必ず残る怖さをやっと知った。
それ以降、多分文体が変化したと思う。先ず違うアングルからそれを考え、そして事実を確認してから書く様に心がけている。
万が一、誤解を与えたり、害になっても僕には責任が取れないからだ。
父は生前、自分が少しでも曖昧に思う事については、”知らん。”と言っていた。学者として立派な発言だと今日思った。
本日、6月2日は父の誕生日。
今日撮った写真を残す。
芸術
このブログを再開する時に、必ず題名は日本語を使うと決めたのだが、今回だけはアルファベットを使う。
友人はこう言った。芸術が全てなんだよ、と。彼は音楽をやっている。それを貫き通している。そして僕に音楽の素晴らしさを教えてくれた。彼は絵も描くし、物も作る。仕事も芸術に関わる事をやっている。
岡本太郎の描いた、オリンピックの絵は素晴らしい。まさに芸術が爆発している。
だが、何も形に残る事だけが芸術ではない。波に乗る事もart。言葉を発する、会話をするのもart。考える事がartなのだ。ポジティブな思いがARTなんだ。
英語で、自閉症の事をArtisticと呼ぶ事がある。素晴らしい。自閉症の方々はそうでない人とは全く異なる思いをし、それを表現する事がよくある。まさしくこれが芸術なんではないだろうか。
僕に出来るartは絵画の様な写真を撮る事。
それを続ける。
弔い
下の写真を先程撮り英語でそうタイトルを付けようとしたら、無い。
英語には”弔い”と云う意味の単語が無いのだ。他にも山ほどある。勢い、疾走なども無い。探せば限りなくあるだろう。どれも、他の単語を組み合わせてその意味に近付ける事は出来るが、どこか必ずニュアンスが異なる。ニュアンスにしても、カタカナでそう書くしかない。
昨日覚えた言葉に、”琴線に触れる”という言葉がある。”strike my code”がそれに近い。”code”には様々な弦楽器の弦の意味が含まれている。ちなみに琴線は英語に訳す事が出来る。”heartstrings”と云う。心の弦だ。
英語と日本語を翻訳する際、絶対直訳をしてはならない。英語を直訳したらまず間違いなく日本語で無くなる。逆もしかり。なので、意味は全く違えどどこかが繋がる文、言葉、単語を僕は使う。
以前に初めて翻訳の授業を受けた時、何かは忘れてしまったが、とある英語を”雑種文化”と訳した。講師の方は、今まで誰もそう訳した人はいない、と仰った。確信した。これでいいのだ。
よく何故日本人は英語が苦手なのか、といわれる。恐らく、カタカナとローマ字があるからだと僕は思う。
言葉ほど複雑で柔軟な物は無い。
ホンダ・バモス
先日車を購入した。黒い軽自動車のワンボックスワゴン。僕が欲しかった車だ。
大事な所が何時も抜けている僕は、この時にも大事な所が抜けていた。
ばかもん
まぁ、いい。そして予算を自分なりに決め、中古車を狙った。ある親切な男性が彼の車に僕を乗せ、色んな車屋さんを回ってくれた。あの時はとても助かりました。ありがとうございます。
しかし、予算と希望が何処へ行っても折り合わず、妥協せざるをえなかった。それぞれの資料を抱えて、家に戻り選ぼうとした帰路で、彼が急に左折した。何かな?と思っていると、とっても小さな中古車屋さんに停車した。
“見間違いじゃなければ・・・”と呟きながら彼は歩を進め、僕はたったかついて行った。
そこには黒く四角い車がピカピカと輝いていた。
バモスだ。
お店のおじちゃんに値段やコンディションなどを伺い、前後左右からバモスを眺めていると、”車検、タイミングベルト交換含めてその予算でいいよ”と答えられた。
こいつは僕の物になる運命だったのだ。それを瞬間的に見付けた親切な彼が偉い。
取り敢えず帰り、決断し、明朝そのおじちゃんにバイクで会いに行った。”これ下さい”と言うと、”だろうね”と苦笑いしながらおっしゃった。
その中古車屋さんで購入したのには理由がある。
猫だ。
昨年10月に、まだ赤ん坊のその子が川に落ちてもがいていたらしい。それをおじちゃんが川に入って助けた。家にはまだ小さい孫がいるから猫を飼えない。なので中古車屋さんの事務所に置く様にしたそうだ。
こんな優しい方がいるなら、まずその店は間違い無いだろう。ちなみにその猫は臆病そうに僕から離れ、そこから真ん丸な水色の目で僕を見つめていた。
各手続きを終え、1週間後に納車された。やはりその店は仕事が速かった。バモスよ、よく来たな。
これにした訳は、2台自転車が乗る。シャチを楽に病院に連れて行ける。母を車でしか行けない所、自転車でも行けるがそれに乗って見る景色とは異なるルートで連れて行ける。などなど。
先日、自分の引越しでまず大活躍。その後シャチの手術があり、そして県南にある魚市場が隣接した山路の公園へ母と行けた。2度。
バモスやるじゃん。
今日は朝から色々な事務手続きをする為に各窓口へバモスで向かった。午後からは自転車で近所の郵便局へ行った。久しぶりの自転車は気持ちが良い。
自転車は特別な良さがある。そして車は便利だ。使い分ける事が出来る。そしてこの2つを同時に使えるようになった。
車が好きな男の子が母にこう言ったそうだ。”くるまってべんりなんだよ”
そろそろ洗車だな、バモちゃん。